冷え性でホッカイロが手放せない、まみあなです。
書こう書こうと思っていて、遅くなってしまったんですが、先日急逝された、加藤和彦さんについて。
僕は当然、フォークルやミカバンドの直撃世代ではありません。
物心ついた頃に流れていたのは、愛や恋を歌うものばかりで、それが普通だと思っていました。
僕がフォークというジャンルを知ったのが何時だったか、明確に覚えていません。
それは、両親の影響で聴き始めたものでした。
よしだたくろうや、山田パンダ、最近では、はっぴいえんどなんかも好きです。
歌が、ただ聴こえてくる時代ではなく、若者が時代を創るために、歌を口ずさむ。そういう時代でした。
懐古主義なわけでも、ありがちなファッションとして、でなく、自分にとってはフォークソングとはまるでその歌と共に歩んできたもののような気がします。
いつ聞いても、その歌は活力に溢れ、生きることへの渇望や、尽きることの無い情熱を届けてくれます。
加藤和彦さんは、当時から誰もが羨む才能を持っていました。
それでいて稀代の洒落者。「帰ってきたヨッパライ」を歌った時の衣装はスーツに、ユニオンジャックのネクタイ。大のワイン好きで、還暦の祝に買ったものは真っ赤なフェラーリ。10年間で、ロンドンで購入したスーツは120着。長身で、スマートな身のこなし。こういう人を、天才というのでしょう。
彼にとって歌は「革命」でも「主張」でもなかったのかもしれません。「自己満足」でもなく。
ただ、滲み出る感情や思いを、自分の「カッコいい」と思える形にして、表現しただけなのでしょう。
だからこそ、「あの素晴らしい愛をもう一度」という歌は、少し少女趣味で、ありきたりの場所に着地することなく、ふわりとした清涼感と、胸に残る切ないばかりの温かさ。
これを名曲と言わずして、なんと言いましょうか。
サディスティック・ミカ・バンドでは、ソリッドな音楽で、世界中を席巻。最後のボーカルを務めた木村カエラの祖父がミカバンドの大ファンで「メンバーになったことを誇りに思え」と言ったというのは、あまりにも有名な話でしょうう。
加藤さんが亡くなった数日後の朝日新聞に、盟友であった北山修氏が手記を寄せていましたが、彼を誇らしげに思うと共に、寂しげなものでした。
あのギターを弾く颯爽とした姿が見れないのは、残念でなりません。
書こう書こうと思っていて、遅くなってしまったんですが、先日急逝された、加藤和彦さんについて。
僕は当然、フォークルやミカバンドの直撃世代ではありません。
物心ついた頃に流れていたのは、愛や恋を歌うものばかりで、それが普通だと思っていました。
僕がフォークというジャンルを知ったのが何時だったか、明確に覚えていません。
それは、両親の影響で聴き始めたものでした。
よしだたくろうや、山田パンダ、最近では、はっぴいえんどなんかも好きです。
歌が、ただ聴こえてくる時代ではなく、若者が時代を創るために、歌を口ずさむ。そういう時代でした。
懐古主義なわけでも、ありがちなファッションとして、でなく、自分にとってはフォークソングとはまるでその歌と共に歩んできたもののような気がします。
いつ聞いても、その歌は活力に溢れ、生きることへの渇望や、尽きることの無い情熱を届けてくれます。
加藤和彦さんは、当時から誰もが羨む才能を持っていました。
それでいて稀代の洒落者。「帰ってきたヨッパライ」を歌った時の衣装はスーツに、ユニオンジャックのネクタイ。大のワイン好きで、還暦の祝に買ったものは真っ赤なフェラーリ。10年間で、ロンドンで購入したスーツは120着。長身で、スマートな身のこなし。こういう人を、天才というのでしょう。
彼にとって歌は「革命」でも「主張」でもなかったのかもしれません。「自己満足」でもなく。
ただ、滲み出る感情や思いを、自分の「カッコいい」と思える形にして、表現しただけなのでしょう。
だからこそ、「あの素晴らしい愛をもう一度」という歌は、少し少女趣味で、ありきたりの場所に着地することなく、ふわりとした清涼感と、胸に残る切ないばかりの温かさ。
これを名曲と言わずして、なんと言いましょうか。
サディスティック・ミカ・バンドでは、ソリッドな音楽で、世界中を席巻。最後のボーカルを務めた木村カエラの祖父がミカバンドの大ファンで「メンバーになったことを誇りに思え」と言ったというのは、あまりにも有名な話でしょうう。
加藤さんが亡くなった数日後の朝日新聞に、盟友であった北山修氏が手記を寄せていましたが、彼を誇らしげに思うと共に、寂しげなものでした。
あのギターを弾く颯爽とした姿が見れないのは、残念でなりません。
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